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【涵碧歩道】 全長1.5キロ。くねくねと涵碧半島をめぐる歩道の沿路には花や木が茂り、時に波の音が聞こえ、またホワイトジンジャーの香りが漂ってくる。途中の六角形の展望台からは日月潭を取り巻く緑の山々が白い雲とともに眺望できる。その下方には歩哨ボックスがある。かつて蒋介石元総統をガードする衛兵の詰め所だった。涵碧楼下方の小さな波止場にある一艘の手こぎボートは往時蒋介石とその夫人が使用したもの。この波止場には一般住民は接近できない。そのために岸辺にいまも警備の人員が配置されている。
【涵碧樓】 大正5年(1916年)に伊藤という日本人が日月潭(溢流口付近)に豪邸を建てて「涵碧楼」と称した。その後、この一帯が地震に襲われ、多くの民家が崩壊したが、涵碧楼だけは寸部の損害も受けなかった。その噂が伝わると、次々に官民が訪れて宿にしたという。
後に発電所の工事が始まり、水没することになったので、移築することになったが、当時伊藤には経費がまかなえじ、政府がヒノキを使って二階建ての保養所をたてた。大正12年(1923)、当時の皇太子(後の昭和天皇)が日月潭を訪れることになり、当地に八間の貴賓館が増築された。また、昭和9年(1934)、日月潭水力発電所完成の際に、「梨本宮守正王(なしもとのみやもりまさおう」が視察に訪れた際に宿として使用し、そのときにも二間が増築されるなどして、涵碧楼の名が世に轟くようになった。
第二次大戦後、蒋介石は日月潭を愛で、涵碧楼はその保養地、あるいは外国からの賓客を招待する重要拠点となった。当時、小さな別荘が増築され、礼拝場所として教会が建てられたのである。かつての涵碧楼は消失したが、涵碧楼にまつわる歴史は生き続けている。