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日月潭とサオは不可分一体である。相互に依存し、相互に輝き合う存在だ。サオという独自の歴史と文化をもつ原住民の存在が日月潭をいっそう神秘に美しく彩っている。
サオは台湾原住民のなかでももっとも小さな民族である。長期にわたり日月潭畔を拠点に、祭事・工芸・美食・歌舞といった伝統の文化を守ってきた。
祖先の霊がサオの人たちの信仰の核心であり、サオの各家庭には「祖霊籃」が祀られているる。一般に「公媽籃」とも呼ばれ、なかには祖先から伝えられる衣装が入っていて、祖先の霊の存在を象徴している。重要な祭事が執り行われる時は、家族一同が祖霊籃に向かって拝礼する。 サオの祭事は四季を通じておこなわれる。旧暦2月の開墾祭、3月の陸稲播種祭、5・6月の整地除草祭、7月の狩猟祭、そして8月にはもっとも重要な新しい一年の始まりを祝う祭りが一か月近くにわたって賑やかに展開される。
杵の音がサオの代表的な音色である。長さの異なる杵を地面におかれた石板に打ち付ける。心地よいリズミカルな旋律が日月潭の周囲に轟く。これはかつて八月の祭りの序曲であったが、いまはお客様を迎える迎賓の歌となっている。
邵族は台湾先住民の一族で、南島の一族と分類されている。美しい山と湖に恵まれていた日月潭邵族の人たちは、清朝早期に、清朝の禁令を無視した漢人が、邵族伝統の生活地域に侵入し、暴力に遭ったこともあったため、邵族は方々に流離した。 清朝末期に統治していた役人は開放政策を主張し、漢人の開墾は一層ひどくなった。その上、異なった民族の人と接したため、邵族は疾病などに感染し、18世紀には人口が急激に減少し、数千人から清朝末期には三百人くらいまでになった。
台湾が帰還されてから、先住民の分類方法は大体日本殖民時代の学者伊能嘉納氏などと同じように、九族に分けられ、絶滅に近い「熟番」は扱っていないため、「熟番」を「平埔族」と同一として名づけた。「熟番」に属した邵族は先祖が阿里山から来て、白鹿を追うため日月潭に移住したという伝説があるので、中華民国四十年に行った「山胞身分」の調査で、曹族に分類された(曹族は現在鄒族と正式に改名したが、邵族はまだ「曹族平地先住民」に分類されている)。 邵族の帰属問題で、台湾が帰還されてからは具体的な研究によって、言語的、血縁的、社会文化的な特徴などから、鄒族とは明確に分かれていることがわった。 邵族の先祖様は邵thaoから一脈相伝で、邵族の族名を誇っている。二百年以来、邵族は漢人の移入と政治の影響で、邵族の伝統社会がかなりの衝撃と変化を受けた。このような波瀾万丈の歴史の中、邵族は周りの先住民族と協力し合い、起承転合の社会を創った。
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